津山洋学資料館

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津山の洋学

 

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津山の洋学

 

 
洋学とは…
 
 
 それは江戸時代に西洋からもたらされた進んだ学問の総称で、一般的には「蘭学」といった方が分かりやすいかもしれません。
江戸時代の日本はいわゆる「鎖国」政策によって、海外との交流を厳しく制限していました。西洋諸国のうちで交流のあったのはオランダだけで、オランダ語を通してしか西洋の学術に触れることができなかったのです。オランダ(和蘭)語を使って研究する学問であることから、始まったころは「蘭学」と呼ばれていました。
しかし、幕末に開国してからは、オランダ語以外の英語・フランス語などのいろいろな西洋のことばが入ってきます。そして、それぞれのことばを使った研究が始まりました。そこで、西洋諸国の学問という意味で「洋学」と呼ばれるようになりました。
この時代は、西洋諸国が植民地を求めて、アジアに進出してこようとしていたときでもありました。そのため、植民地政策に対する危機感から、研究分野も医学などの自然科学中心から、応用化学・社会科学へと広がっていったのです。
そのような状況のもと、江戸幕府が倒れて明治になり、日本の新しい時代が幕を開けました。
 
津山の洋学
 津山市を中心とする美作地方(岡山県北東部)は、江戸時代後期から明治初期にかけて、宇田川家や箕作家をはじめとした日本の近代化に貢献した優秀な洋学者を輩出しています。
 
洋学の家 宇田川(うだがわ)三代
 宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、玄随のとき蘭方医に転向しました。玄随は西洋内科学を日本に紹介し、洋学は養子の玄真、榕菴へと受け継がれ、医学から自然科学へと宇田川家の家学を完成させていったのです。この三代を特に「宇田川三代」といい、その功績は明治以降の近代科学の発展に大きな影響を与えました。
 

  

 うだがわげんずい   かいえん
宇田川玄随(槐園)  1755年(宝暦5)~1797年(寛政9)
~初めて日本に西洋内科学を紹介 津山に蘭学をもたらす~

 

▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵

 津山藩医・宇田川道紀の長男に生まれ、槐園と号しました。

初めは漢方医として蘭学を嫌っていましたが、25歳のとき幕府医官・桂川甫周や仙台藩医・大槻玄沢から西洋医学の正確さを教わり蘭方医に転向、大槻玄沢や杉田玄白らについて蘭学を修めました。
 桂川甫周のすすめに従ってオランダの医者ゴルテルの『簡明内科書』を10年かけて翻訳し、日本初の西洋内科学書『西説内科撰要』を著述しましたが、刊行途中に43歳で亡くなり、養子の玄真が遺志を継ぎました。
 杉田玄白は回想録「蘭学事始」の中で、「(玄随は)漢学に厚く博覧強記の人」「鉄根の人ゆえ、その業大いに進み」と玄随のことを述べています。
 津山に蘭学をもたらした先駆者です。

 

 

 

 

 うだがわげんしん   しんさい
宇田川玄真(榛斎)  1769年(明和6)~1834年(天保5)
~翻訳力は当代随一 蘭学中期の立役者~

 

▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵

 伊勢の安岡家に生まれ、江戸で大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。杉田玄白にその才能を見込まれ養子になりますが、身を持ち崩したために離縁されます。のちに苦学して再起し、稲村三伯を手伝い日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』の編さんに従事しました。寛政9年(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、大槻玄沢らの斡旋により宇田川を継ぎ、榛斎と号しました。

 西洋の解剖科や病理学、生理学まで紹介した『医範提綱』や、薬学書『和蘭薬鏡』『遠西医方名物考』などを著して、全国の医師を指導しました。また、幕府天文方の蕃書和解御用(外国文章翻訳の仕事)にも出仕しました。
箕作阮甫・緒方洪庵ら多くの蘭学者を直接育成したことから、「蘭学中期の大立者」と称されました。
 膵臓の「膵」やリンパ腺の「腺」という字(国字)をつくったことでも知られています。

 

 

  

 うだがわようあん
宇田川榕菴  1798年(寛政10)~1846年(弘化3)
~近代科学の確立に貢献 江戸時代最高の化学者~

 

▲ 武田科学振興財団杏雨書屋所蔵

 大垣藩医の江沢養樹の長男として江戸に生まれ、14歳で宇田川玄真の養子になりました。のちに馬場貞由についてオランダ語を学びました。

 日本初の本格的西洋植物学書『植学啓原』や日本初の本格的な化学書『舎密開宗』を著し、近代科学の確立に大きな功績をあげました。
さらに、オランダの地理や歴史、西洋の度量衡の解説書や西洋音楽理論書、コーヒーについてまで、幅広い分野にわたって研究しました。オランダ語の書物をもとに、大量の下書きや模写も残しています。シーボルトとは江戸で親しく交流しました。
 「細胞」「繊維」「葯」「柱頭」「酸素」「水素」「酸化」「還元」「温度」「圧力」などの植物・化学用語を造語し、「珈琲」の当て字をした人物として知られています。
 好奇心が旺盛で、語学力や文才・画才にたけた榕菴は、魅力あふれる江戸時代の蘭学者です。

 

 

蘭学から洋学への橋渡し 箕作阮甫(みつくりげんぽ)とその一門
 江戸時代、日本人はオランダ語の書物から世界の事情を知ります。幕末には諸外国から開国を迫られました。
 津山生まれの藩医・箕作阮甫は、幕府の対米露交渉団に随行するなど、日本外交に力を尽くします。世界の地理や歴史の研究など学術の方面から、激動する幕末期の日本を支えました。「蘭学」が「洋学」へと移っていく時代です。
 彼の子孫からも数多くの逸材が出て、近代日本の礎となりました。
 
  
 みつくりげんぽ
箕作阮甫  1799年(寛政11)~1863年(文久3)
~欧米諸国の歴史研究や外交交渉に力を尽くす~

 

 

 津山藩医・箕作貞固の三男として津山に生まれ、江戸に出て宇田川玄真に洋学を学びました。41歳で幕府の蕃書和解御用に任ぜられ、ペリーが持参したアメリカ合衆国大統領親書を翻訳し、ロシア使節プチャーチンの来航時にも外交文書の翻訳や交渉に参加しました。

 開国後、幕府が蕃書調所(洋学の研究・教育機関)を設けると、58歳で首席教授に任ぜられています。蕃書調所はいくつかの改称、改編を経て現在の東京大学になります。
 西洋文化の導入に貢献した訳述書は、医学・語学・西洋史・兵学・地理学など広範囲にわたります。

 

 

 みつくりしょうご
箕作省吾  1821年(文政4)~1846年(弘化3)      
~阮甫の養子として世界地誌を著しベストセラーに~

 

 

 

 仙台藩士・佐々木秀規の次男として、陸奥国水沢(現在の岩手県水沢市)に生まれました。14歳のとき相次いで両親を亡くし、蘭方藩医・坂野長安に引き取られます。その後、江戸の箕作阮甫の門に入り、学才を見込まれて養子に迎えられました。
 阮甫の協力のもとに世界地図『新製輿地全図』、世界地誌『坤輿図識』、『坤輿図識補』を著します。当時、省吾は結核を患っていました。周囲の心配をよそに、喀血を隠して執筆した原稿は「血染めの原稿」と称されました。その著作は、吉田松陰や桂小五郎、坂本龍馬ら幕末維新の志士たちに多大な影響を与えましたが、省吾は26歳の若さで亡くなっています。
 

 

 

 

 

みつくりしゅうへい
箕作秋坪  1825年(文政8)~1886年(明治19)
~2度にわたって渡欧し、国事に奔走する

 

 

 備中国呰部(現在の岡山県真庭市下呰部)の儒者・菊池文理の次男に生まれました。江戸で箕作阮甫の門人になり、緒方洪庵の適塾に入門した後、阮甫の養子になります。29歳で幕府の蕃書和解御用に任ぜられ、35歳で蕃書調所の教授方手伝になります。2度にわたってヨーロッパ諸国に派遣され、幕末の外交交渉に活躍します。明治維新後は東京に英学塾・三叉学舎を開き、新思想団体・明六社にも参加するなど、文明開化に尽くしました。

 

 

  

 みつくりあきよし
箕作麟祥  1846年(弘化3)~1897年(明治30)
~フランスのナポレオン法典を全訳、民法編纂に力をつくす~

  

 

 箕作省吾の長男で、祖父の阮甫に蘭学を学びました。蕃書調所、開成所に出仕し、慶応3年(1867)、22歳の最年少でパリ万国博覧会に派遣された徳川昭武に随行、フランス語を独学しました。帰国後、明治政府の命令でナポレオン法典を5年間かけて全訳し、『仏蘭西法律書』と名付けて刊行します。この書は日本の法典編纂に寄与し、近代法学修得の手引き書にもなりました。動産・不動産など多くの法律の用語を作り、民法の編纂にも尽力しました。

また、明六社にも参加し、さまざまな啓蒙活動を行っています。

 

   

  きくちだいろく
菊池大麓  1855年(安政2)~1917年(大正6)
~ケンブリッジ大学を卒業、「東洋の奇男児」と呼ばれる~

 

 

 箕作秋坪の次男で、父の実家である菊池家を継ぎました。2度イギリスに留学し、ケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業して、「東洋の奇男児」と呼ばれました。帰国後、東京大学理学部数学科の日本人最初の教授となります。著書『初等幾何学教科書』は明治から大正にかけて、近代数学の教科書として広く使われ、「菊池の幾何学」として名を高めます。理化学研究所初代所長、東京・京都の両帝国大学総長、文部大臣などを歴任しています。

 

  

  みつくりかきち
箕作佳吉  1857年(安政4)~1909年(明治42)
~世界初の真珠養殖に貢献した海洋動物学の第一人者~

 

 

 箕作秋坪の三男に生まれ、アメリカに留学して動物学を学びました。帰国後、東京帝国大学理学部の日本初の動物学教授になり、三崎臨海実験所を設立し、日本動物学会を結成します。日本における海洋動物学の第一人者として、世界初の真珠養殖に成功した御木本幸吉を学問的に指導したことで有名です。また、たいへん珍しい深海性のミツクリザメをはじめ、ミツクリエビなど、彼に献名された生物が多数知られています。

 

  

 みつくりげんぱち
箕作元八  1862年(文久2)~1919年(大正8)
~昭和天皇に対して最も知的影響を与えた西洋史学者~

 

 

 箕作秋坪の四男。動物学の研究のためドイツに留学しましたが、近眼のために顕微鏡観察に限界を感じて、西洋史学に転向しました。東京帝国大学教授となり、『仏蘭西大革命史』『世界大戦史』など、多くの歴史書を著して、西洋史研究の発展に尽力しました。

 昭和天皇は昭和47年(1972)のニューヨークタイムズ紙で「最大の影響を受けたのは、日本の英雄でも天皇でもまた著名な科学者でもなく、箕作元八という名の教授だ」と語っています。

 

 

 

 

各門人録に記されている美作地域出身の洋学者たち