津山洋学資料館

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榕菴とシーボルト

 

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洋学博覧漫筆

 

           ようあん
Vol.14 榕菴とシーボルト

 

シーボルトが榕菴に贈った顕微鏡

 (早稲田大学図書館所蔵)

 江戸時代、オランダとの交易の窓口になった長崎の出島には、海を越えてさまざまな人がやって来ました。その中でも最もよく知られているのはシーボルトではないでしょうか。

 シーボルトは1796年に現在のドイツで生まれました。大学では医学を修めましたが、植物学や博物学への関心も深かったといいます。後にオランダの軍医となってジャカルタに赴き、そこからさらに日本へ赴任することが決まります。

 文政6年(1823)、オランダ商館付の医師として出

島にやって来たシーボルトは、新しい交易品を探すために日本の産物、特に植物の調査を命じられていました。ところが出島の外へ出ることがほとんど許されていないために十分な調査ができません。そこで、一計を案じて長崎郊外に私塾を開くことを願い出ます。それが有名な「鳴滝塾」で、西洋医学を教える傍ら、塾生に日本の動植物のレポートを提出させることにしたのでした。

 同時にシーボルトは日本の著名な学者たちに手紙を送って、研究の協力を依頼しました。その一人が江戸詰の津山藩医・宇田川榕菴だったのです。

 シーボルト来日の前年、『菩多尼訶経(ボタニカきょう)』という植物学書を刊行したばかりの榕菴は、研究への意気込みにあふれていました。シーボルトからの申し出は、榕菴にとって願ってもないことだったのでしょう。自作の植物標本や写生画を送り、植物学について教えてほしいと頼んでいます。シーボルトも榕菴の願いに応えて植物学書を貸したり、珍しい薬を送ったりと、文通はしばらく続けられました。

 二人がようやく出会えたのは文政9年(1826)、シーボルトが将軍に拝謁するオランダ商館長に随行して江戸に来たときでした。榕菴は到着を待ちかねて、弟子を品川まで出迎えに向かわせています。そしてシーボルトの江戸滞在中は、宿所となった長崎屋に何度も通って互いに本を見せたり、植物標本を贈ったりと親密に交流をしました。榕菴の標本の出来栄えに感激したシーボルトは、長崎へ戻るときに「我が好学の友へ」との献辞を記した博物学書や植物学書、さらに顕微鏡などを贈ったのでした。

 この交流は二人にとって有益なものとなり、シーボルトは帰国後、『日本植物誌』を刊行してヨーロッパに日本の植物を紹介しました。そして榕菴もこの後、『植学啓原』という日本で最初の本格的な植物学書を刊行することになるのです。

 

 

 

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