津山洋学資料館

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阮甫、蘭学への志

 

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洋学博覧漫筆

 

              げんぽ
Vol.27 阮甫、蘭学への志

 

箕作阮甫

幼くして父を亡くした箕作阮甫は、苦学しながら21歳で藩医となりました。そんな阮甫の大きな転機となったのは、江戸での蘭学との出会いでした。

 23歳で結婚した阮甫は、その翌年の文政5年(1822)に藩主のお側に仕える侍医に抜擢されました。そして、次の年に参勤交代のお供で初めて江戸へ出ることになったのです。

 当時江戸では、津山藩医の宇田川玄真が蘭学界の重鎮として活躍しており、その高名は津山にまで鳴り響いていました。それを耳にした阮甫は「自分もこの新しい学問を学びたい」と願っていたのでしょう。江戸に着くと早速玄真に入門し、蘭学を学ぶことにしたのでした。

 宇田川家には玄真の養子・榕菴をはじめ、たくさんの塾生が修業していました。阮甫より1歳年上の榕菴は、前年に植物学書『菩多尼訶経』を出版するなど、すでに学者として活躍しています。阮甫の向学心はかき立てられ、藩に願い出て江戸詰の期間を3年間延長してもらいました。翌年、阮甫は藩主のお供でいったん津山に帰りますが、改めて妻の実家に妻子を託すと、すぐに江戸へ戻ってしまいました。

 江戸での4年間は、玄真から蘭学を学ぶ傍ら、長崎から江戸に来た通詞(通訳)の下でもオランダ語を学んでいます。短い期間でしたが熱心に勉強に打ち込み、その上達ぶりは周囲も賞賛するほどだったといいます。

 夢のような4年間が終わると、再び津山で暮らすことになりました。新魚町に新居を構え、家族と暮らし始めますが、師匠や友人と離れ、蘭書も少ない津山での生活は、阮甫にとって耐え難いほど寂しいものだったようです。その時の心境を「心が灰になるようだ」と書き残しています。

 再び江戸へ戻ることを願いながら4年が過ぎたころ、ついに10年間の江戸詰を命じられます。天保2年(1831)の春、33歳の阮甫は妻と2人の娘を連れ、希望に燃えて津山を出発しました。蘭学者・阮甫の活躍は、ここから始まるのです。

 

 

 

 

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