津山洋学資料館

>
>
宇田川玄随と『西説内科撰要』

 

→リンク

 

 
 
 
  休館日

 

 

 

 

洋学博覧漫筆

 

        うだがわげんずい     せいせつないかせんよう 
Vol.3 宇田川玄随と『西説内科撰要』

 

 

『西説内科撰要』

(津山洋学資料館所蔵)

 

 

『解体新書』を出版した杉田玄白が活躍していたころ、津山藩の江戸屋敷に宇田川玄随(槐園)という藩医がいました。
 江戸屋敷は、今の東京駅の南端辺りの鍛冶橋という所にありました。今でも鍛冶橋という交差点があるので、おおよその位置が分かります。宇田川家は玄随の父・道紀の代に津山藩に召し抱えられ、玄随はこの鍛冶橋の藩邸で生まれました。宝暦5年(1755)の出生ですから、今から260年ほど前です。
 この宇田川玄随が、日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』(全18巻)の刊行を開始したのは、寛政5年(1793)、39歳のときでした。
 日本の医学は古くから中国の医学を基礎に発達してきたので、それを信じて疑わない漢方医たちは、新しい西洋医学に強く反発していました。もちろん、玄随も最初はその一人でした。しかし、杉田玄白らの蘭学グループと交流したことにより西洋医学を志し、10年もの歳月をかけてこの内科書を翻訳したのです。
 出版したとき『解体新書』の刊行からすでに19年経っていましたが「西洋医学とは外科だ」と言われるほど、西洋内科に関する知識はほとんどありませんでした。この書の刊行によって次第に知識が広まり、西洋内科の専門医が生まれることになったのです。
 では、この事業をやり遂げた玄随とは、一体どのような人物だったのでしょう。『西説内科撰要』の序文には、中国のことわざなどが巧みに引用されています。また、残されている手紙を読んでも、文章や用語、筆使いとも群を抜いていて、大変な勉強家だったことがうかがえます。杉田玄白も『蘭学事始』で玄随のことを「漢学に詳しく、非常に物知りな人である」とか、「もともと秀才で、その上根気強い人なので、彼の研究は大変進んだ」と高く評価しています。
 『西説内科撰要』は18年をかけ、3巻ずつ6回に分けて刊行されました。しかし、惜しくも玄随は、最初の出版から4年後、刊行半ばに43歳で世を去ります。そのため、その後の刊行は養子の玄真によって引き継がれたのでした。

 

 

 

 

< 前号 記事一覧 次号 >