津山洋学資料館

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宇田川家のその後

 

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洋学博覧漫筆

 

           うだがわけ
Vol.25 宇田川家のその後

 

興斎が仁木永祐に贈った薬箪笥。

左は箪笥の裏(津山洋学資料館寄託資料)

江戸詰の津山藩医を務めた玄随、玄真、榕菴は、宇田川家3代と呼ばれ、日本に近代科学を紹介したことで有名ですが、その後の宇田川家はどうなったのでしょうか。今回は、榕菴以降の宇田川家について紹介したいと思います。

 榕菴の後を継いだ興斎の時代には、外国船が相次いで近海に現れ、海防のために洋学者の役割が大きくなっていました。興斎も、ペリーが来航したときには箕作阮甫とともに国書の翻訳にあたり、ロシアからプチャーチンが来航すると幕府の応接使に随行して下田に赴くなど、外交に携わっています。

 また、オランダ語に替わって英語の重要性が高まっていることに気づくと『英吉利文典』という文法書を翻刻刊行し、洋学者たちの英語学習を助けたのでした。

 明治維新の前後、文久2年(1862)から明治5年(1872)までの10年間は、藩主の命令で津山に移り住んでいます。江戸で勉学を教えた弟子で、籾保の医師・仁木永祐は興斎を度々訪ねていて、興斎が東京に戻るときには、愛用の薬箪笥を贈られています。興斎にとって、江戸の動乱を遠く離れた津山で耳にする日々は歯がゆいものだったかもしれません。それでも薬箪笥を見ていると、かつての弟子との交流が、そんな興斎の思いを慰めていたのではないかと感じられるのです。

 興斎の長男・準一は、21歳で明治を迎え、大阪開成所(明治政府が設けた洋学教育研究機関)で物理や科学を学んで、明治7年(1874)に東京師範学校の教師となりました。『物理全志』や『化学階梯』『(小学)読本』など多くの教科書を刊行し、明治の文明開化を物理や化学の分野で支えました。宇田川家は、幕末から明治にかけても、学問の家としての大きな足跡を残しているのです。

 

 

 

 

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